浅石と「じょんから節」との関係

 

「じょんから節の由来」から

じょんから節は上川原節ともいわれ、津軽民謡の三大節(じょんから節、よされ節、津軽小原節)の一つに数え
られ全国的にも唄い継がれている。
その由来は、今から4百年の昔、九戸騒乱で大浦為信に攻められ、十一代にわたって津軽の東の山根に繁栄
した千徳家が滅亡、落城哀話として伝えられている。
当時、浅瀬石城下には、五倫山上神宗寺、高賀野大善院、護国山妙経寺等の外に各寺には坊が付属していた
神宗寺の一坊辻堂に常椽和尚が方向していた。(上浅瀬石の田の中に大きな杉の木があり現在高速道の脇に
移植されている)
大浦勢は喚声と共に辻堂に乱入し、佛像をこわし墓をあばく乱暴に常椽和尚、山伏姿で大薙刀をつき立て
「汝等、オオウラの犬ざむらいいめ、ここは千徳代々の墓所なるに、佛像をこわし、墓をあばく非人ども、人は
死すとも霊魂は不滅なり、佛を恐れぬ畜生ども、汝等の子々孫々に至るまでたたりあるらん」と先祖代々の位牌
を背負い薙刀を打ち揮い、血路を拓いて東をさして逃げたが捕らえられそうになったので白岩の断崖から浅瀬川
に身を投じて一生を終わった。
年を経た夏に、川原で遊んでいた子供達が常椽和尚の変わり果てた屍体を砂の中に見出し、かけつけた村人
が相談し、その場所に墓を作り、ねんごろに弔った。常椽川原と呼ぶようになった。それから毎年お盆には常椽
川原に集まり供養をし、昔を偲び、代々の城主をはじめ、先祖の霊を慰め、盆踊りに興じ、即興な歌を唄った
故に「じょんから節」は「くどき節」ともいわれる。
歌詞は時代と共に変わって現在は観光的要素が入った歌詞なっているが、元唄の歌詞は

 

一、 ハアーさあさこれから読みあげまする
  津軽浅瀬石じょんから節よ
  さてもあわれな落城のはなし
二、 ハアー今は昔の七百余年
  津軽行重主となりて
  伝えつたえて十代あまり
三、 ハアー頃は慶長二年の春に
  津軽為信大軍ひきい
  城主政保討死いたす
四、 ハアー時に辻堂常椽和尚
  先祖代々位牌を背負い
  高い癖崖から濁流めがけ
五、 ハアーやがて春がすぎ真夏となりて
  村の子供ら水浴びすれば
  砂の中からあわれな姿
六、 ハアー村の人達手厚く葬り
  盆の供養をすました後は
  昔偲んでじょんから節よ
七、 ハアー春は城山りんごの花よ
  秋の田の面は黄金の波よ
  村は繁昌で家内は笑顔

 

昭和二十九年浅瀬石と石名坂の間にかけられた橋を「上川原橋」と命名されたのもまた、意味深く、更に橋の
たもとに鳴海亀太郎氏の発意により「じょんから節発祥の地」の石碑を建て昔を偲ぶよすがとしている。

                                   浅瀬石城落城4百年記念 浅瀬石沿革史より抜粋