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N,Y,からマドリッドまでの飛行機は、映画を間に挟んで食事を2回取ると、もう着陸態勢に入ってしまった。マドリッド空港のイミグレイションでは、帰りの飛行機のチケットやビザの有無やら様々調べられるものと覚悟していたのだが、係官はスタンプを押してくれただけで、質問もなくあっさりと入国となってしまった。300ドルを両替し、インフォメイションでバス乗り場は何処か聞き、ガラガラのバスに乗ってマドリッドのコロン広場到着。事がスム−スに進み過ぎるのが少し気にくわなかったのだが、バスタ−ミナルのソファに座って、宿はどの辺にしようかとガイドブックなど取り出したりなどして(と言ってもお勧めの宿などを参考にするわけでなく地図を見るだけなのだが)考えていると、中年のオジサンが「宿探してるのか?」と近付いてきた。僕が料金を聞くと3000ペセタ(日本円で4000円弱)だと言う。僕は目を丸くして「高過ぎる」と叫んだ。客引きに来る宿は安い宿と認識している僕は、着いたばかりで相場の分からない自分ではあったが1000〜1500と見当付けていたので、いきなりの3000の提示で、これはかなり苦しい旅になるのではなかろうかと思ってしまったのだった。しかし気を取り直し地下鉄に乗ってプエルタ.デル.ソルへ行き、最初に入った宿が1800だというので、少しホッとし荷物を降ろした。何件か回ってみてもっと安い宿を探したほうが良かったのだが、なにせ今回の旅は今までの旅の中でも一番荷物が重く、半分はFilmだけの詰まったでかいフレ−ムザックを背負い、ビデオと35mmのカメラと500mmを含む数本の交換レンズ ,そしてN,Y,で購入した6X9カメラの詰まった大きめのカメラバックを肩に担いで歩いていると、膝や腰あるいは肩がおかしくなってしまわぬうちに、荷物を降ろせる場所に辿り着いてしまいたいと思ってしまうのだ。先は長いのだ。フレ−ムザックは宿に置くとしても、カメラバックはこれから毎日担いで街中をウロウロする訳なのだから、無理は禁物なのだ。昼頃に宿に着いた僕ではあったが、時差のため眠気が襲ってBedに横になり夕方まで寝てしまった。そして近くのBar(バル)へ出掛けてゆきBeer(セルベッサ)を飲み、ショウケ−スの中に並んでいる料理を指差して出してもらい、簡単に食事を済ませ、宿に戻って再びBedに潜り込んだのだった。次の日は朝から雨で、宿の前にあるCafeでカフェコンレチェ(カフェオレ)とクロワッサンを食べ、近くにあるサンフェルナンド美術館へ行った。夕方まで見て出てくるとまだ雨だった。次の日もまだ雨で、今度は地下鉄に乗ってアト−チャ駅まで行き、昔の駅の建物など眺めたりなどしながらソフィア芸術センタ−へ行った。昨日は一つのフロアで延々と眺めていて時間が立ってしまったけれど、ここは広くて作品も多く、次から次とフロアを歩き回ってもまだまだ続いていて、作品を見続けて頭が痛くなってくるのと、歩き回って足がフラフラになるのとで、どっと疲れてしまって、廊下にあるベンチに腰掛け、息を整えてはまた見てを繰り返し、一日見て回ったのだけど、外は相変わらず雨なのである。スペインに対して持っていた気候のイメ−ジとしては、青空と照り付ける太陽であっただけに、こののっけからの雨続きは、いささか期待外れではあったのだが、逆に美術館はゆっくり見て回れるし、たとえ晴れたところでここマドリッドの街並と言えば、古い建物も多いけれどあまりにも都会し過ぎていて、写真はあまり撮れないだろうと思えた。雨をこれ幸いに美術館通いも悪くないのだ。3日目雨は上がっていたけれど、重く立ち篭める灰色の雲の下を歩いてプラド美術館へ行った。これまた広くてしかもデカイ絵が一杯あって、館内のCafeで何度かコ−ヒ−を飲んで休み休み見たのだけれども、はたして全部のフロアを回れたのかも分からず、夕方外へ出てみると、雲は何処かへ姿をくらまし、眩しい太陽の光でプラド通りの並木の緑の葉は、キラキラ輝いているのだった。次の日もよい天気で、マドリッドの街中をウロウロ歩いて回り、そのまた次の日今度は電車に乗ってアランフェスまで行ってみようと、アト−チャの駅の自動切符売り機で切符を買った。日本の機械だとデジタルの数字が入れた金額分表示されるだけだが、ここのはコインを入れると、そのコインの金額の数字が、モニタ−の画面の上から下へ降りていってフレ−ムアウトし、画面下の反対側に合計金額が加算されて表示されるという芸の込んだ機械なので、なかなか楽しめる。さて裏面に磁気テ−プの付いた切符を持って、電光掲示板でプラットフォ−ムの番号を確認し、自動改札を通ってエスカレ−タ−でホ−ムへ降りると、もう電車は入線していた。ホ−ムの電光掲示板もアランフェス行きであると出ている。他の人も乗り込んでいるようだ。しかし乗れる車両の種類とか座席の指定などあったりするのだろうかと、フッと考えたので、電車の入り口の前でもう一度切符を見直した。すると、突然後ろから英語で、アランフェスへ行くんだったらこの電車だよと話し掛けてきたオジサンが居たのでビックリした。その人はそれだけを言うと、ホ−ムの先の方へ歩いていってしまったので、こっちはサンキュウと言うのがやっとで、イヤそれもスペインに来て、ありがとうはグラシアスと反射的に出始めてきた頃だけに、サンキュウが少し遅れてしまったけれど、あの人は英語の話せるスペイン人だというだけで、そのままグラシアスと言ってもよかったのかな、あるいは日本語で「あどもども」なんて言ったら向こうも日本語で、「気を付けて」なんて返してくれたりするのかななんて、少々頭が混乱してしまったのだけど、あのオジサンは何処かで見た覚えがあるなぁと思ったら、アト−チャの駅までのメトロ(地下鉄)でも、一緒の車両に乗ってた人であるということに気付いた。彼は僕のことをスペインに不案内な観光客であることに気付いて、僕が何時か何かに迷ってオロオロでもし始めたら、どらどらどうしたと声を掛けようと、僕の後ろから見守っていたのかも知れない。メトロから降りてアト−チャの駅の構内で切符を買って、改札を通りホ−ムへ降りるまでの間、後ろから今か今かと待っていたのだ。僕がそのままスンナリ電車に乗り込んでしまっていたら、彼の親切心を発揮する欲求は満たされずに終わってしまうはずであった。しかしである、計らずして僕は電車の入り口の前で立ち止まり、も一度切符を見直すという態勢を取ったのだった。彼は今だとばかり後ろから近付き、さっき買った切符はアランフェス行きだということはすでに知っているから、僕の手にした切符もろくに見ずに、アランフェス行きはこの電車だよと言ってくれたに違いない。それはそれで大変ありがたいことなのだ。同じパタ−ンでこれがスリやひったくりである場合が多いというスペインで、訳も分からぬ日本人のために助けてあげようとしてくれる人も居るということを知っただけでも、かなり心和むものがあるではないか。それが仮に僕が本当に知りたかったのは、車両の種類や座席指定の有無であったとしてもだ。あまり混んでいなかったので適当に空いた席に座り、車掌が何か言うまでそうしていようと思っていたのだが、5分遅れで発車してアランフェスに着くまでの30分の間、とうとう車掌は現われなかったのだった。その間車窓の風景を眺めながら、数ヶ月前の日本での出来事を思い出していた。それはある週末の夕方、混雑している新宿のJRの切符売り場で切符を買って改札口に向かおうとした時、年配の外国人カップルが、切符売り場の運賃表を見上げて何やら困った表情をしているのだった。そこで声を掛けてみようかなと思って近付いていくと、そのカップルの後ろに見覚えのある人が立っているのに気付いた。僕の知り合いであるその人も、声を掛けてあげようと機会を伺っているところだった。しかしその格好が、これは本当に偶然なのだが、僕と同じカメラ屋のちょっと大きめの紙袋を抱えてサンダル履きという姿であり、その格好で外国人カップルの後ろで仁王立ちという姿は少々異様で、僕は思わずカップルに声を掛けるより先に、彼の名前を呼んだのだった。僕らはあまりの偶然の出会いに嬉しくなって、カップルは見捨てて新宿の街へ飲みに行ってしまったのだが、あの時見捨ててしまったのが、後になっても至極悔やまれるのだ。あれだけ多くの人が通るのだから、きっと僕等のすぐ後で誰かが声を掛けてくれただろうなとは思うのだが、東京の場合誰かがやるというのは誰もやらないと同義語だから、とても心痛むものがあるのだ。さらに、今まさにそのカップルに安堵感を与えんとしていた僕の知り合いに対しても、僕は罪を犯してしまったような気分がしているのだ。さて、アランフェスの駅から歩いて王宮まで行き、近くのバルでセルベッサを飲んでから庭園を歩いた。川のほとりで絵を1枚描き終えると、することはもはや何もなくなってしまった。こんなに大きい庭のある家に住めたらどんなにイイだろか。と、思ってみたところで、今の日本ではそんな夢は妄想以外の何物でもないのだった。やはり日本に住むのは諦めるべきなのだろう。陽が傾くまで庭を歩き回りながらそんなことを考え、陽の光を真横から受けて、緑の草原に長くしかもくっきりと影を延ばした、お客の少ないディ−ゼルカ−に乗って、マドリッドに戻った。 |
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