参考文献、秘録児玉道場(高瀬博編著)
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高慶氏は、この道場を引き継ぐに当たり、自分の技術向上のため、19歳の時に柔道の神様と謳われている加納治五郎氏が創立した講道館に入門し修業に励みました。また、22才の時には、昭和の剣聖と言われた高野佐三郎と日本を二分したもう一人の剣聖であった有信館本館の中山博道先生に師事、柔道と剣道の両道の修業に励み、共に五段の免状を授与されました。
 なお、中山博道氏や加納治五郎氏は、何回かこの児玉道場を訪れ、門下生に指導したと記録されております。右の写真は中心の中山博道先生を囲んで門下生の高慶氏(右端)が写っております。 現在は平元地区の菩提寺で眠っております。
その後、子息の児玉高慶氏(上写真)が館主を引き継ぎました。高慶氏は、相撲取りを思わせるような巨漢で、なおかつ大きな情熱を以てこの道場を発展させました。そして、小枝指村の大地主であったこともあり、金に糸目を付けずにこの道の振興につとめたことから、大正後半から昭和初期にかけて「村の作男も四段の腕前、日本一の武道の村」として全国的に有名になり、県の内外から入門するもの、実に千二百人余、有段者百数十名を数えたと記録されております。
鹿角は、古くから尾去沢・小坂鉱山を中心に栄えた地区で、その豊かさに伴い剣道・柔道が大いに花を開いた歴史が残されております。
 
 小枝指村(現在の鹿角市花輪 小枝指地区)にあった児玉道場は、明治26年児玉猪太郎によって建立されました。
私が平成9年から11年までの3年間鹿角市立花輪第二中学校に勤務した機会に、大正から昭和初期にかけて、この学区の小枝指地区で全国的に名声をはせ、また、父親の熊谷良勝や叔父(父の兄)乳井義博氏が子どもの頃に通ったという児玉道場についてまとめてみました。

武道の父児玉高慶について