そして次の日、あのバスから見えた街の名が未だ判然としないので、その鉄道の終点である、デニアというバレンシアとアリカンテのほぼ中間に位置する街まで行ってみることにした。バレンシアからアリカンテまでバスで2時間足らずで着いたのに、その半分の距離を3時間近く掛けて、2両編成のディ−ゼルカ−は到着した。途中あの見覚えのある風景の街は、カルペという街であり、アリカンテとデニアのこれまたほぼ中間にあるということが分かったのだが、その駅も割と街から離れた所にあり、これから次の電車でガタゴト戻ったとしても、街まで行ってアリカンテ行きの最終までに駅へ戻って来るのは、少しシンドイ事になりそうだった。デニアの観光案内所でもらった地図を見ながら、さして見るべきものの無い街を、バスタ−ミナルへ向けて歩いた。次の電車よりも早い時刻に出るバスがあり、バスならあの街の中まで行くだろうと思い乗ったのだが、着いたのは駅からさほど離れていない単なる停留所であり、最終までの3時間という時間は、街まで往復してオシマイであると思えたので、近くの小高い丘に登って街を眺めることにした。街と言ってもメインは海に突き出たこれまた切り立った山の半島であり、どうもこれまで切り立った山ないしは崖を、ひたすら見て回ってるような気がするが、はたして心理学的にそういうものに引き付けられる要因とは何なのか、と考えるまでもなく、緩やかな稜線の山しか見ずに育ってきたわけだし、地平線や水平線というものにも、見慣れないものとしての憧れが常にあるわけであり、だだっ広い平原の中にぽっかりデッカイ岩があったり、水平線を背に切り立った崖の半島というものも、ただそれだけで感動してしまうものなのだ。あるいは生まれ育った土地と似た風景の場所に出会った時、心理的に何か作用するだろうか。僕が育った盆地という環境は、やはり閉鎖的な圧迫感というものが少なからずあるわけで、僕が海外のだだっ広い風景に憧れることと関係してくるものがあると思えるし、都市に暮らしていて山が見えないと不安に思うことがあるのも、やはり盆地という環境が、この自分を育んできた重要な部分を占めるものである何よりの証拠となるわけだが、郷里にたまに帰っても毎日ゴロゴロ寝ているばかりで、カメラを担いで何かを撮りに行こうという気が余り起きないのだ。それは多分こういうことだ。十数年間という間、様々の違った光で同じ場所を見てきたわけであり、その長い歴史(これはあくまでも僕にとっての)の間に蓄積した、感動的な光の状態の瞬間というものが、記憶の中にたくさんあるわけで、一週間やそこらの滞在で、それらの記憶の中の瞬間に似た状態に出会えたらというノスタルジックな気分のまま、今ある風景を見ようとしないのだ。そしてそういう昔の風景を記憶の中で美化して懐かしみ、昔の風景が失われつつある郷里に行って、ほとんどどうしようも無く恍惚の人となってしまう自分なのであった。さて問題は旅に出てるときの風景との出会いだが、移動に次ぐ移動となってしまうのだから、様々な風景には会えるけれど、その風景をより印象的なものにしてくれる光の瞬間というものがあるわけで、それにタイミング良く会えればそれほど幸せなものはないが、会えないことの方が当然多いわけで、おのずとその光の状態で勝負しなければならないわけだが、青空写真あるいは夕方のオレンジ光線写真の好きな僕としては、アリカンテに来てから毎日続いているドピ−カンの日々というものは、大変有り難いのだ。 2時間の間にざっと描いたカルペの半島の絵は、ほとんどつまらない絵になってしまったのだが、陽が傾いて、自分が座っていた場所に立っているパ−ムツリ−の影が、崖の下の波打ち際にくっきりと延びているのに気付き、そろそろバス停へ戻らなきゃと思ってたのだが、カメラバッグからカメラを取り出し、ビデオを構えてと、いきなり忙しくなってしまったのだった。そして次の日再びバスに乗って、カルペより少し南の、小高い丘の天辺に建つ教会の周りに、その丘を埋めるように白い壁の家が立ち並んでいるアルテアという小さな街へ行き、そのまた次の日、もう少しアリカンテの海岸の写真が欲しいなとは思ったのだが、マヨルカで長居した分先を急ぐことにしたのだった。アリカンテから100km程南にあるカルタヘナという街は、ガイドブックには全く説明のない街ではあったけれども、その街の近くにまるで天の橋立のように、細くヒョロヒョロと延びる半島があるのを地図で発見していたので、行ってみようと思ったのだが、アリカンテのバスタ−ミナルはデカクて近くの街へもボンボンバスが出てるのだが、カルタヘナの街でバスが着いた所というと、ベンチが一個だけの待合室のある切符売り場の建物の前の道路であり、次に予定しているアルメリアという街へ行くバスも調べてみると無くて、さらに荷物を担いで街をウロウロ歩き、宿を探してもこれまた無くて、一軒ホテルだったけどしゃ−ないなと思って聞いてみると満員で、こりゃ何か再びバスに乗って、50km位北西にあるムルシアという街まで行かなきゃアカンかなと思い始めた頃、Barの横を通り過ぎると、そのBarの前を掃除してたオジサンが「宿ならココだよ」と、そのBarを指差して言うのだった。確かに小さく宿の看板が出ており、Barに入ってお客を掻き分けて奥へ行くと、Barの主人らしき人が鍵を渡してくれ、さらに奥の階段を上って、部屋に辿り着くことが出来たのだった。そしてバスがこの街に入る時、やはりここにも鉄道があるのを見付けていたので、その駅まで行ってみた。そのスペイン版天の橋立は、カルタヘナの街を根にして、大きい半島が東に向けて尖って延びていて、その半島の突辺先から北に向けてヒョロヒョロと、20km位延びているものなのだが、その橋立まで電車が通っていれば文句無いのだけれど、その付け根の近くまでは行ってるみたいなので、次の日往復切符190ptsを買って、一両編成のディ−ゼルカ−に乗ったのだった。しかし終点で降りて内海側の海岸まで歩き眺めてみると、橋立は遥か彼方であり、その辺を走ってるようなバスは雰囲気さえも無く、海岸沿いに建てられた家はほとんど閉め切ったままで人の居る気配も無く、カルタヘナからディ−ゼルカ−でやって来た土地の人達が、ポツンポツンと、少々冷たくて強い風の吹く海岸で寝そべっているのが見えるだけだった。仕様が無いので、海岸ぺたを橋立方向に向けてポコポコ歩いてみた。家が途切れると同時に砂浜も途切れ、遊歩道も無くなってしまった。次なる集落が300m程向こうに見えるのだが、そこにつながる道が見当たらないのだ。枯れた草むらの、バイクか何かで通ったらしき跡を歩いて行く。また家が無くなると道が無くなる。ゴミの溜まった波打ち際を歩いて行く。そんなことを何度か繰り返してる内にあることに気付いたのだった。ここら辺の家はほとんどが別荘であり、幹線道路はずっと海岸から離れたところを走っていて、その道路からそれぞれの集落につながる道が、平行に一本ずつ延びてるだけなのだ。別荘であるからそれぞれの集落をつなぐ道は全く必要なく、集落から集落へブツブツ言いながら歩いて行くのは、どこかのサンダル履きの・・・・。 遥か彼方に見える橋立の上の高層ビル群を眺めながら、あと何キロ位だろうか、大分近付いて来てるはずだ、せめてあそこに見えてる灯台らしき建物までは行って帰りたいものだ、あれだけのビルが建ち並んでいるということは、必ずやバスがカルタヘナまで出ているはずであり、もうここまで来た以上、また同じ海岸べりを歩いて戻るのはイヤだし、バスが無くたってタクシ−でもそんなにベラボウな料金ではあるまい。という様なことをウダウダ考えつつ、炎天下の余り美しくない波打ち際を、3時間歩いてやっとビル群の中に入り、目に留まったBarに入ってBeerを飲んだ。少し傾きかけた太陽の光が店の白い床や壁に反射して、店内はとても明るく、バカンスで来てるのだろうスペイン人の3人の婦人達が、マスタ−と何か夢中になって話してるのを、隣でボケ−と聞きながら冷たいBeerを飲み続けた。しかしオ−ストラリアのゴ−ルドコ−ストもここも同じ様に東海岸であるのに、何故この様に高いビルを海岸沿いに建て並べてしまうのだろう?午後も早くにそのビルが太陽の光を遮って、砂浜に大きな影を落としてしまうのは余り問題ではないのだろうか?あるいは夕方は影の中の海岸の散歩という風な習慣の為のビル群なのだろうか。ま、僕にとっても、白い砂浜にビル群の縞模様の影というのも面白くはあるのだが、海水浴や日光浴に来てる人達は何とも思わないのだろうか?あるいは、余りにも強い陽射しだから、午後は影になってちょうどいいのかも知れない。しかしここの橋立の外海側の海岸は、プライベ−トビ−チになってる所が多いみたいで、結局浜には出ることが出来ず、歩いてる時に見えてた灯台に向かった。途中バス停があって、調べてみると8時15分がカルタヘナ行きの最終であり、あと3時間位だった。直ぐ着くだろうと思った灯台まで、写真を撮りながら歩いてたら、また1時間近く掛かってしまって、工事中の灯台の写真を一枚撮って直ぐ引き返したのだった。Barでカフェコンレチェを飲んでいると早くも8時となり、バス停へ行った。15,6人の尼さん達が同じ制服姿で、ベンチに座ったり、工事用に積み重ねたタイルの上に腰掛けたりしながらバスを待っていて、僕もパ−ムツリ−の根の所に置かれたブロックに座って待つ態勢を整えた。カ−ブの向こう側からバスがやって来るのが見えると、尼さん達は一斉に立ち上がり、来た来たという感じでバス停の看板の元に集まって来るのだが、そのバスはツア−のバスで、当然止まらず通り過ぎ、尼さん達はアラアラという感じで、各々前に腰掛けてた場所に戻り、暫くしてまたバスがやって来て、ホラ来たという感じで皆立ち上がり集合し、しかしバスは止まらず、皆定位置に戻り、次に来たバスを見て、来た来たと一斉に立ち上がり集まっても、バスは止まらず、皆戻ってと、何かゼンマイ仕掛けのオモチャの様に繰り返す同じ動きで、まだ来ぬバスにイライラすることも無く、アラアラマアマアホントニネェといった風情の尼さん達は、見ていて面白かったし、こちらもホノボノノンビリ待つことが出来たのだけど、待ってる間にその場所は完全に日影になってしまって、少し寒く、小便もしたくなってきた頃バスはやって来たのだった。恐らく200ptsはしないだろうと思いつつも、手に200ptsを握っていくらか聞いてみたら、25,25と言うので、アァ125かと思って200ptsを受け皿に置いても、まだ運転手は25,25と言うので、何だろう釣りでも無いのかなと思い、ポケットに手を突っ込んでコインをまさぐってると、運転手は切符をビリッと千切って僕に見せるのだった。すると、そこに印刷されている値段は225ptsであり、僕が出したお金では足りないのだった。しかし随分高いものだ。電車で往復190ptsだぜ。10km位は歩いたけど、それでもチョット高過ぎるのではないかいな、とブツブツ言いつつバスに揺られてカルタヘナに帰ったのだった。 次の日、日曜日ではあったけれど、ムルシアという少し大きな街までならバスは出てるだろうと思い、至る所でムルシア行きのバス停は何処かと聞きながらやっとの事で見付け、1時間程でムルシアに着き、1泊だけして再びバスに乗り、アルメリアに向かったのだった。150km程走って現われた風景は、ザンブザンブと少し大きめの波が打ち寄せる美しい海岸であり、山の方には、斜面にこぢんまりと固まって建ち並ぶ白い家の街があり、標識にはモハカ−ルと出ていて、ここも戻って来る様だなと思いつつさらに90km程走って、3時近くにバスはアルメリアに着いたのだった。今一つパッとしない街だなぁと思いながら、タ−ミナルの前のBarに入って、ボカディジョをBeerで食べ思案した。この街に宿を取ってモハカ−ルまで往復するよりは、モハカ−ルに泊まった方がイイのではないかと思ったので、3:30のバスに乗って来た道を戻ったのだった。何と30分間のアルメリアでの決断であった。そして山の斜面の街の外れで止まってくれるものと思ってたバスは、海岸まで来てしまって、まっイイカ、と荷物を担いで海岸沿いの余り建物の多くない通りを歩いた。Barの前に立っていたオジサンに、宿はこの辺にあるかと聞くと、「あぁ一杯あるよ。そうだな後500m位したらあるよ」と言うので行ってみると、500m位で出たのはキャンプ場であり、宿まではさらに500m位歩かねばならなかった。最初に入ったオスタルの料金表を見てみると3500ptsであり、一つ星なのに何なのだろうと思いつつ、受付の人が出てくる前にそこを出て、次なる宿では3000ptsだと言われたのだが、その先には、もっと高いだろうと思える宿しかなく、かと言ってこれから山の街まで行く元気もなく、2泊位だからイイかなと思い泊まることにした。しかし3000のことだけはあって、部屋には風呂は付いてるし、バルコニ−もあって、道路の向こうには海が真正面に広がって見えるし、ブエンブエンと思いつつ、やおら今まで溜まった汚れた服の洗濯に取り掛かったのだった。 |
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